親の介護と自分の暮らし【二拠点生活という選択 】

仕事の自給講座

二拠点生活なんて言うと、お金持ちの社長か、「夢をみているだけの人」と聞こえるかもしれませんね。

でも、私にとってはもう、夢ではなく“必要な暮らし方”になりつつあります。

海外に居ながら、日本の家族を想う私の選択です。

亭主関白の父と支える母

2024年、昨年は7年ぶりの日本帰国をしました。

父は、今年80才、母も高齢です。

父は昔ながらの亭主関白タイプで、母はわがままな父の言うことを聞くだけで、

自分の生活を父に捧げています。

父は健康的な体が大の自慢で、毎週3回ジムに通い、筋肉を鍛えて体も柔らかく自分の体に誇らしげでした。

70代でも同僚と比べて「自分が一番若くて元気だ!」と自慢していました。

しかし、コロナで生活が一変しました。

ジム閉館。

毎日畑に通い、家の周りを2時間歩くのが日課だなんて言っている時期もありましたが、

他に趣味もなく、友人もいない父は、毎日顔を付き合わせる母を酷く罵倒する日々。

母は、父が昼間から家にいることで、趣味に出かける時間すら奪われてしまいました。

18で私が家を出た理由

「娘は嫁に出る。長男が家を継ぐ」

幼い頃から、父にそう言われて育ちました。

今思えば、父も厳しい両親にそう言われて育ったのだろうと思います。

私が幼い頃から、両親はお互いの性格の折り合いがつかず、毎日喧嘩でした。

小学校の頃から、「私は家を出る」と決めていました。

高校は商業科を選び、働くスキルを身につけて、高校卒業後は寮がある工場の仕事を選びました。

自分の居場所を自分で作り出すことで、自由を手に入れました。

国際結婚ともう1つの家族

英語への憧れからワーキングホリデーでニュージーランドへ。

その流れで、夫と出会い、夫の両親とは最初から同居していました。

両親とは真逆で、夫の両親はラブラブでした。

愛情深い義母と過ごすうちに、私は「親からの愛情」の意味を改めて考えさせられました。

押し付けがましいと感じていた母の行動も、全部「愛情」だったのだと気づきました。

子育ては親も成長する

自分の娘たちを育てながら、気づいたことがあります。

それは、親もまた成長するということ。

今なら、あの時の両親の気持ちが分かります。

「親」といえど、完璧なわけではない。

ましては、20代。今の時代なら、まだ子供と言ってもいいぐらいです。

私たちの時代は、子育てについて学べる情報がたくさんあります。しまじろうには、とてもお世話になりました〜

でも、私の両親が子育てをしていた時代は、そんな時代ではありませんでした。

戦後間もなく、農家に生まれた両親。

「親からたっぷり愛情を受けて育つ」なんて文化は、当時はありません。

彼らは、家の働き手として育てられ、日本の復興を支える“人材”として厳しく育てられた世代です。

そんな背景を持つ両親は、愛情を表現するなんてあり得ないのです。

老いには勝てない父

7年ぶりに帰国したとき、父の様子は明らかに変わっていました。

身体はすっかり弱っていたのに、性格は相変わらず頑固なまま。
もしかしたら、以前より頑なになっているかもしれません。

毎日顔を合わせる母が気の毒で仕方ないのですが、
わがままな父に強く言うこともせず、言いなりになってしまう母。

海外暮らしの私からしたら、母は自分でその状況を選んでいるように見えます。

それでも、2人はそれが「幸せ」だと信じています。

それが長年連れ添った夫婦というものなのかもしれません。

そんな環境で育った弟は、結婚をせず子育ての経験もなく、

正直なところ、両親の介護を担えるとは思えません。

幼い頃は、純粋でとても心の優しかった弟は、すっかり日本の企業戦士になってしまいました。

体力的には問題なくても、人を思いやり、支える“心の筋力”が育っていないように感じます。

両親の介護が現実になりつつある中で、弟に任せられないと感じています。

ニュースで目にするような、介護をめぐる悲しい出来事が、この家でも起きるかもしれない──

そんな不安がよぎります。

「娘は嫁に出る」

そう言われて育った私ですが、

両親の介護は、私の役目だと腹を括っています。

愛情深い両親に育てられた夫は、そんな私の決断を受け入れてくれています。

オンラインで稼ぐ「仕事の時給」

1年の日本滞在を終えて、ニュージーランドに私たちが戻ると、

父の容体は急速に悪化。

心不全、歩行困難、オムツを拒否しながらも、現実には抗えない姿。

戦後生まれの男性は、老いて介護を受けることが屈辱だと思う節があります。

今までは、「自分の城の大将」として生きてきたのです。

辱めを受けたくないのです。

1年の日本帰国の目的の1つは、私の両親のことも見据えて、

家族みんなが幸せな暮らしができる答えを探す旅でもありました。

ちょっと無謀でしたかね?(笑)

1年間、日本を巡った旅は無計画そのものでした。

だけど、無計画だからこそ出会えた人、景色、感情がたくさんありました。

「もう一度、日本に帰りたい」

そう思えたのは、この経験のおかげです。

娘たちは高校生と小学生。

日本帰国となれば、学校の問題があります。

そこで、日本に居ながらNZのオンラインホームスクールを試したけれど、限界がありました。

だから、これからは――

私1人で日本とニュージーランドを行き来する「二拠点生活」という暮らし方に挑戦します。

オンラインで仕事をしながら、介護と自分たちの暮らしのバランスを取る。

「実現は3年後」とビジョンボードに書いたけど、

現実というのは、待ってくれないようです。